何度も見ている夢を見た。  広いお花畑に、置き去りにされる夢。  何度も見ている夢だった。  だけど、今日は、いつもと違った。  広いお花畑に、置き去りにされていたはずなのに、いつの間にか、目の前にはやさしい人影が立っていた。  逆光の中、その人の顔すら見て取れなくて。……でも、 「お母さん?」  雅はそうつぶやいた自分の声で、目を覚ました。  ベッドのすぐそばに、ちょうど誰かが腰掛けた気配がする。 「……ああ、起きましたか。今りんごをむきますからね、待っていてください」  真実だった。  お母さんを夢うつつに呼んでいるのを聞かれたなんて、いつもの自分だったら裸足で逃げ出すところかな、と思う。  けれども今は熱のせいか、それとも夢の終わりがいつもと違ったからか、そんなことはどうでもいい気分だった。 「……なんで、そんなにいろいろ世話焼くの」  足元の方で洗濯物をたんすにしまっている寮母さんが、またあんな憎まれ口言って、とあきれ顔をしたのが見えた。 「なんで……でしょうね」  八等分したりんごをむき出した手を止めず、真実はおうむ返しにつぶやく。雅ではなく、自分自身に言い聞かせるように。 「お兄ちゃんがいるんですよ。こんな話するとまた、雅ちゃんは怒るかも知れないけど、私にもおもしろくてやさしいお兄ちゃんなんですけど。  その、真似をしてみたかったのかもしれません」 「……まね?」 「です。誰にでも優しくてね、で、小さい女の子がさみしくて、落ち込んで、泣いてたときに、一緒に遊ぼうよ、って言うんです」  真実のせりふの中で、自分が小さな女の子扱いされたことに雅は気づいたが、それでも今は怒る気にはならなかった。 「それが子供心にもカッコよくて、それで、真似したかったのかも知れません」 「ふぅん…… かっこいい、かなぁ」 「かっこわるい、ですか?」 「うん」  あまりにもあっさり雅が断じるので、また真実はしょんぼりうなだれた。 「そうですか……どうして、そう思うんです?」 「だって……かっこわるいじゃない。  追いかけて、立ち止まってもらえないのに、ずっと追いかけるのって」 「………………」  そのまま真実はなにか考えるような眼差しで、むいたりんごをひとつフォークに差し、どうぞと雅に握らせる。  素直に受け取った雅に上目遣いをして、繰り返す。 「……こんなこと聞いたら雅ちゃん、また怒るかも知れないですけど」  何、と雅は目で聞き返した。 「雅ちゃんは……追いかけても、振り返ってもらえないって、思ってるんですか?」 「なんで」 「だって……うまく言えないけど、だから追いかけるのを、怒るのかなって」 「……わかんない」  わからないよ。雅は胸の中で繰り返しながら、りんごをかじる。  甘くなかった。  額に軽く筋を立てて、甘くないりんごを口の中でもてあます雅に真実が言う。 「私もお父さんもお母さんもいなくて、でも、兄がずっと面倒を見てくれていたんですよ」  嘘。  じゃあ、この人はこちら側の人だったのか。脳天気な高校生とは違って……いや、でも。 「……僕には、お兄ちゃんもお姉ちゃんもいないもん」  ぐるぐると考えつつも結局、雅の口からは憎まれ口が出てしまう。しかし、次の突然の申し出にはさすがにその気もそがれた。 「だから、……私が君のお父さんになるっていうのはどうでしょうか?」 「……へ?」 「え、あ、いえ……お兄さんでも、いいんですけどねっ。  私は……逃げませんよ。雅ちゃんが追いかけてきたら、立ち止まって待ってますよ」 「…………追いかけたり、しないから」 「追いかけなくても、待ってますよ。雅ちゃん、自分がお姉さんだから、ちっちゃいみんなのやってほしいこととか、聞いてあげたりしてますよね?  それ全部、私に回していいですから。そのぶんわがままいっていいですから」 「……ほしいものとか、ないもん」  雅は口に含んだままだったりんごを飲み込む。  ほんとは、ある。  私だけの部屋。私だけのおもちゃ。  私だけのお父さん、お母さん。  私だけを見て、私のいうことだけを聞いてくれる人。  でもそれは、願ってもかなわないものだから。 「言わなきゃ、わかりませんよ?」  かなわない願いを、ほろ苦いりんごの塊と一緒に飲み込んだ雅の返事を、しかしまったく聞こえなかったかのように、真実は続ける。 「何がほしいのか、何をしてほしいのか、言ってくれなきゃわかりませんよ」  あんまりしつこくたたみかけるので、つい雅も言い返す。 「言ったってわかるわけないじゃん、わかってくれるわけないじゃん」 「でも……その時は私が『わからない』ってちゃんと言いますから。そしたらわかるまで、何度も説明したらいいですよ」 「ぜったいに無理なものでも? ぜったいできないことでも?」 「そんなこと、あるはずがないです」  いやにきっぱりと、真実は断言する。 「ほんとに?」 「嘘は言いません。だってほら、私は、私の名前は『真実』なんですから」  いつもの雅だったら、そんなの理由にならないと斬って捨てそうなことを根拠に挙げて、にっこりする。  そしてなぜか顔を赤くして、顔の前で大げさに手を振り、訂正を加えた。 「いや、その、えと、屋上から飛び降りろ、とかは無理ですけどねっ?  雅ちゃんそんなこと、言わないでしょ?」  雅はその必死の訂正に、また反論するタイミングを逃す。  そしてすかさず、真実は繰り返した。 「駄目ですか? 私が君のお兄ちゃんに、なるっていうの」  私だけの、お兄ちゃん……か。  お父さんから、お兄ちゃんにまけたとしても、かなう願いなのかな。そうなんだとしたら。  りんごは熱のせいか、やっぱりちっとも甘くなかったけど、そのほろ苦くて酸っぱい塊を雅は一口ずつ噛みしめていた。 「ねえ、マラソン大会って、やっぱり絶対出なきゃ駄目かな」  冬。孤児院近くの線路沿いを、連れだってジョギングする二つの影があった。 「またそんなこと言って……せっかく練習してるのに」  大きい方の影、真実は、一緒に走る雅の不平に悲しそうにする。  来週の院でのマラソン大会に向け、二人で練習をしているところだった。 「私だって学校で、がんばって走るんですから、雅ちゃんも走りましょ? ね」 「だって僕……学校でも、大会あったし。なんで、二回マラソンしなきゃ、なんないの」 「う……それは」 「なんかごほうびあるっていうなら、ともかくさあ」 「豚汁作ってくれますよ。後援会の人が。私も手伝います」 「うーん……いまいちなんだよね」  ジャージの上に着込んだウィンドブレーカーが、二人の歩調に合わせてしゅるしゅると音を立てる。  しばらく無言で線路脇の道をたどる。  ちょうど警報機が鳴り出した踏切前で足踏みしながら、真実が言った。 「じゃ……雅ちゃんがマラソン大会がんばったら、私がなにかごほうびあげますよ」 「また、お菓子?」  この半年で、真実の手練手管には慣れきった雅だった。 「……だめですか……  じゃ、じゃあ、なにか雅ちゃんがほしいものをっ」  なんか、前にも聞いた言葉だなあ。 「うーん」  雅は首をひねる。 「特にほしいもの……今は、ないし」 「何でもいいんですよ?」 「無理しなくていいよ……きまりとか、あるでしょ。知ってるよ」  孤児院にいる以上、自分だけ特別扱いっていうのは、無理なことは知っている。  それに、あのときにほしかったものは、もう手に入ったのだ。  私だけの……ほんとうに雅だけのお兄ちゃん、というのは無理だったけれど、いつも話を聞いてくれる人。  追いかけたときに、待っていてくれる人。 「……あ」  そこまで考えて雅は、今の自分がほしいもの、に思い至った。 「なにか、ありました?」  真実は目に見えて嬉しそうにする。ほんとにわかりやすい人だな、と思う。 「……うん。ほんとにくれる? なんでも?」  一緒に、今日みたいに横を走ってくれる人。追いかけたり、待っててくれたりじゃなくて、ずっと隣で歩いて行く……  お父さんとかお兄ちゃんとかじゃなくて、それは、親友。  あるいは、単なる家族。 「もちろんですよ?  だって、私は雅ちゃんのほしいもの、かなえてあげたいですから。  雅ちゃんが私のこと嫌いでも、私は雅ちゃんのこと好きですから」  しん兄はまだ、そんなことを言う。それは雅がまだ、つっけんどんな態度を取ることが多いからだ。  でも。言えるかな。  友達になって、って。ずっと友達でいて、って。  電車が、すぐそばに立つ人の声も聞こえないぐらいの轟音を立てて前を通り過ぎる。  その音に紛れて雅はこっそりつぶやいた。 「私もお兄ちゃん、嫌いじゃないよ」