──その日、峰子は朝から家を空けていた。 「10時と3時はお茶の時間、これはゆずっちゃいけませんよね」  三男・和見はその名の通り、和みを大事にする性分らしい。  もしかしたらただ単に、好みが爺くさいだけなのかもしれないが。  その時も彼は上機嫌で茶筒を開け、温めた急須に新鮮な茶葉を放り込んだりしていた。余談ではあるがこの家、多人数で毎日欠かさず数杯ずつの煎茶を消費するので、葉の消費は恐ろしく早い。 「う〜ん、やっぱりこの香りですなあ、一杯目の醍醐味は。"二番煎じ"もしっかりと味が出ていてまた違った楽しみで……すが」  あれ?  和見は、気付かなければよかったものに気付いてしまった。 「これは、せとものの破片?」  誰か食器でも割ったのだろうか、流し台の片隅にかけらがまとめて山にされている。 「この色と模様は峰子さんの湯飲み茶碗、だったかな? もったいない」  大きなかけらを、ふちで手などを切ったりしないよう気をつけながらも拾い上げ、ため息をついたその時。 「おや、けん君。お茶ですか? よかったら私にも一杯、くださいな」 「し……っ、ししししし、しんさんっ!?」 「はい?」  和見最大の不幸がその割れ茶碗に目を留めてしまったことなら、最大の失敗は、ここで反射的に慌ててしまったことだろう。 「おや、けん君その手に持っているのは何を割っちゃったんですか?  危ないから燃えないごみに、って、え、それ、もしかして」 「ちが……っ、これは今そこにあって──」 「……峰ちゃんの、なんですか? ええぇぇぇぇええっ?!」  ──お隣さんの家では、ちょうどティーカップに満たされていた紅茶が波立った。   「しん兄ーィ。どしたの?」 「ゴキブリでも出たん?」  雅と千夜が、真実の後ろから相次いで顔を出したので、和見は半歩あとじさった。 「え、えーとこれは、ほら、ここに積んであったのから1つ手に取ったわけでして……信じてくださいよぅ」 「おや、これ、峰っちの茶碗?」  千夜はどれどれとそばにやってきて、自分もひとつつまみあげる。 「うわー。これ峰っち気に入ってたから、怒られるぞー?」  そしてにやにやしながら脅しをかけた。 「って、しん兄が叫んでたのって、コレのこと?」 「え、ええ、その、峰子ちゃんのお茶碗だと、すごく怒るかなって思ったので、私も」 「ウンウン、お姉ちゃん怒ると怖いもんね。すごく」  この場に当の峰子がいたら、これらの発言自体に、私を何だと思ってるんだ貴様ら! と怒るところなのではなかろうか。 「でも、まあ、割ってしまったものは元には戻りませんし、仕方がないですね。  けん君、けがはしませんでしたか?」 「いや、その、だから、私はお茶を飲みに来ただけなんでー……」  と必死に言い開きを試みる和見だが、破片を片手にしている現状ではどうもあまり説得力がない。 「何かあったんですかっ? なんだかすごく大きい声が聞こえたのですが……」  遅ればせながら姿を見せた星に、雅が説明してやる。 「それがね、けん兄が割っちゃったんだって、お姉ちゃんのお茶碗」 「私じゃないんですってばー」  和見は目と同じ幅の涙を流し、がっくりうなだれた。 「けん君、峰ちゃんが怒るのが怖いのはよくわかりますが、ちゃんと謝らなくては余計怒らせてしまうことになりますよ?  一緒に謝ってあげますから、まずはこれを始末しましょうね」  もはや和見の過失は既成事実化したかと思われた。本人も観念したのか、うーとか、えあーうーとか呻吟するだけであったのだが。 「はっ、そういえばじゃむお兄ちゃんっ☆」  ──事態はのんきな星のひとことで、新たなる局面を迎えようとしていた。 「さっき、すごく急いで台所から出てきましたよねっ、声をかけたのに気付かないで行っちゃって……、  どうしてあんなに慌てていたのですかっ?」 「──── え?」  三者三様の視線が、千夜に集中する。 「え、僕──僕が? い、いつ?」 「いつ……だったでしょうか? 1時間はまだたっていないと思うのですが……」 「う……見てたん?」 「じゃむ兄。 ……つまり?」  寄せた眉根とひたっと据えた視線。少しあごも傾けて、みやびは顔中で説明を促している。 「つまりって」 「──自分がやったというのに、私が疑われてたからって皆と一緒におもちゃにしたんですかぁっ?!」  和見の涙が宙を舞った。 「僕はちょっと早めのおやつを食べに来ただけで、無実ですっ!  その、すこーし挙動不審だったのは、しん君が来ないうちに、と思ったからで」 「……じゃむ兄。  それは、つまみ食いを告白してると取っていいんですか?」  ゆらあり。台所の一角で影が立ちのぼった。 「はっ」 「今夜の晩御飯、覚悟しておいてくださいね?」  何かをしょった背中とは裏腹の、まぶしい笑顔が怖かった。長女とは違った意味で怒らせちゃならん相手である。 「……はっ、じゃむお兄ちゃんが慌ててたってことは、お姉ちゃんのお茶碗を割った犯人かもっ☆ なのですね?」 「遅っ?!」  ぽんと手を打つ星に、和見はがびーんとしか表現できないような顔をした。爆弾どころではない威力の発言を投げておいてこのタイムラグ、そのあたりも含めて三女は一家最強なのである。 「犯人だなんて人聞きの悪い、ぷんぷんっ」  ちなみにぷんぷんとはわざわざ口に出して言っている。 「ケド、つまみ食いの犯人なんだよね? どっちみち」 「げふげふっ……雅っち、長女がいないからって代わりにツッコミ厳しくせんでも」  長男はお決まりの空咳をした、が。ボケの総本山が言うには少々、分をわきまえていない一言だったかもしれない。 「でもほんとに、お茶碗割ったのは僕じゃないって。  けん君で遊んだのはほら、第一発見者が一番怪しいっていうじゃんー」 「んな……っ、それを言うなら千夜さんだって、犯人は必ず犯行現場に帰ってくるって言うじゃないですかーッ?!」  濡れ衣から解放された一安心か、毛布のようにだらりとほうけていた和見が、再び向けられた矛先に一瞬で生気を取り戻した。 「ソレもそーだね、時間をおいて何食わぬ顔で現場に戻ってくるってゆーのもセオリーだし。  ってコトは、けん兄がお茶碗と一緒にいるところを見計らって出てくる、とかもできるカナ?」 「はっ、なるほど……雅さんすごい推理ですーっ☆☆」 「ちょっと待って下さいそれって、何だか特定の一人のことをさしているように聞こえるんですがっ?!」 「しん君……吐くなら今のうちだよ」  まさか自分に疑いをかけられるとは思っていなかったのだろう、うろたえる真実の肩をぽんぽんと千夜は叩く。 「何を吐くんですかー……って、いやちょっ、じゃむ兄、それ、この叩き方って、"観念しろ" って言ってないですかっ?!」 「うん。言ってる☆」 「そっそんなこと言ったら、私以外のみんなだって疑おうと思えば疑えてしまうじゃないですかっ!」 「そいやそだねー、雅っちでもありうるか、うんうん」 「ウンウンじゃなくってじゃむ兄っ。 ってなんで僕だけ?! 星ちゃんは?」 「そこはほら、なんとなくっ☆」 「納得できナイっ……」  人差し指を誇らしげに掲げた長男の前で、雅は片手で顔の下半分を覆いよよよと泣き伏した。 「千夜さん……さっきのツッコミを根に持ってたり……、します?」 「ぎくぎくっ」  和見に鋭い指摘を受けた長男が天井の蛍光灯のほうに目をそらしたとき、ついに最後の兄弟が現れた。 「しん兄、これに麦茶入れてくんないー? ──ありゃ、皆さんお揃いで」  水筒片手に姿を見せた無空を目にし、雅は思わずつぶやいていた。 「"時間をおいて、何食わぬ顔で現場に戻ってくる"……?」 「……え」 「も、もしや?」 「え? 何、なんか面白い話?」  一心に浴びているまなざしに、疑惑が乗せられていることを気づいていないのか、無空はきょときょとと全員の顔を見比べる。 「……怒りませんから。きちんと白状した方がいいですよ?」  ふう、と安堵の息を吐いた真実は、微笑を浮かべてそう語りかけたが、よく見れば冷や汗もまた薄く浮かんでいた。  長男もまたオーバーに無空の背を叩く。 「まったく、なっす〜がとぼけたおかげで僕まで疑われて大変だったんだからね、もー」 「いや、千夜さんが疑われたのは挙動不審が原因だったのでは?」 「うるちゃい」  ……そして即座に和見に突っ込まれた。 「え〜っと……何の話なの?」 「まだ、しらを切る気? ──お姉ちゃんのお茶碗割ったの、なっす〜じゃナイの?」 「ちゃわん…………、  何で俺っ?!」 「だって誰も認めないんだもん」  ぶうと口をとがらした長男に、こちらもうがあと水筒を振り回しかけた無空は、視界の隅に掛けられた時計に気づいてあわてて真実に向き直った。 「って、俺、急いでるんだったよ。しん兄、麦茶ある?」 「え、ああ、はい、烏龍茶でもいいですか?」  いまだ動きがぎくしゃくしているところを見ると、先ほど向けられた疑いが相当堪えているようだ。真実は冷蔵庫を開け、ガラス瓶から作り置きの烏龍茶を出すと、無空に手渡された水筒に注いでいった。 「うん、ありがとー♪」 「あっ、逃げる気だ」  まるで新しいおもちゃを取り上げられたような顔の長男である。──まあ、実際もそれと大差ないのだろうけど。 「遅れて出てきて先に逃げるなんて、許されると思ってるのカナー?」 「うんうん、武士の風上にも置けないねぇ」  雅も援護に加わったので、千夜はここぞとばかりにうなずいた。 「勘弁してよ〜、今日、学校で交流会なんだってば。  ってゆーか、俺、武士じゃないし」 「はっ……今日だったのですかっ☆ おみやげ、よろしくお願いしますねっ」  ……学校の交流会におみやげとはこれ如何に。そのあたりの解説は後日に譲るとして、無空はそそくさと台所から出て行った。 「はいはい、そんなわけだから、行くねー」 「ち……逃がしたか」  見送る長男はいささか口惜しげだった。 「なすか君では、ないのでしょうか……あれでも認めなかったということは」 「ウン、なっす〜が犯人だったら、あのくらい慌ててたら絶対ボロ出すと思うし?」  だいたい一番下の男兄弟の扱いなんてこんなもんである。 「では、だれか他の人がお茶碗を割ったのでしょうかっ?」 「お客人さんか、パンダさんという可能性ですか」 「二人……り? えっと。どっちとも、今日はまだ見てないよ」  この場合は何と呼べばいいのだろうか。二頭でも二匹でも微妙に失礼な気がする。 「じゃ……じゃあ」  うっ、と皆背をすくませる。 「そうするとやっぱり、この中に茶碗を割った犯人がいるってことになりますよね?」 「──も一度最初から、状況を洗い直してみましょうかっ」  どこから取り出したのか、千夜が細長い棒で台所のホワイトボードを叩いた。 「わーっ☆ おもしろそうですっ☆」  星は無邪気にはしゃぐ。二時間ドラマのノリだ。 「まず、みんなのアリバイは?」  長男の問いにある者は首をひねって天井をにらみ、ある者は腕を組みつつ考える。 「う……ボク、さっきまで書斎でアルバム整理してたし」 「はいっ、星も部屋で折り紙折ってましたぁっ」 「私も部屋にいましたね……、持ち帰りの資料に目を通してたのですけれど」 「私は二階でゲームをした後、一服しに来たところだったわけで……」  テレビゲームは、三男の珍しく現代っぽい趣味である。……いや、画面にはやはり古いタイトルのロボットやアニメが踊っていたりするので、そうとも言えないかもしれない。 「そういう僕も犬の散歩してたんだよねー……、  つまり全員アリバイなしか」 「てゆーかじゃむ兄、いつ割れたのか分からなきゃ、アリバイもナニも成立しないような?」 「そうですね、お茶碗割るのは一瞬でできちゃいますし。  あ、そうだ。誰か割れた音聞いた人」  と真実が聞くが、皆首を横にふるふると動かすばかりだ。 「むー……、朝ご飯の時にはまだ割れてませんでしたよね?」 「うん、使ってたね。  じゃあ──、今朝の食器洗い当番は?」 「ボクと」 「星でしたよっ☆」  二人が小さく手を挙げて、顔を見合わせる。 「エート……もちろんその時もちゃんと洗ったし、割ったりしてたらその時に大騒ぎになってると思わナイ?」 「それもそっかあ」 「星、乾燥機に並べたの覚えてますよっ」 「でしたら、誰かがそこから何か取ろうとして、落として割った可能性が?」 「そうかもしれませんね」  でも、それが誰かは分からないわけである。 「けん君が自分のお茶碗取ろうとした時じゃないの? ほら」  千夜が急須と和見の茶碗を指さす。 「な、何ですとっ!? 千夜さんだってつまみ食いしに来たときにお茶碗やお箸は使わなかったんですかっ」 「つ、つまみ食いとお茶碗は別だもんっ!  それに、目撃されてないだけで他の人が出入りしてたかもしれないじゃない、しん君とか」 「ええぇっ、私?!」  バラエティ番組の、受け取ってすぐに次の人に渡さないと破裂する風船のように疑惑がたらい回しされている。 「一番台所を使ってるのは、しんお兄ちゃんですよねっ」 「わた……それは確かにそうですけどっ、私はお茶碗は大事に扱いますよっ」 「それは確かに」 「そーゆーとボク達がお茶碗大切にしてないみたいに聞こえるんですケドー。  でもボクだって割らないように気をつけてるよ、……しん兄怖いもん」  ぼそりとつぶやかれた最後の一言に千夜と和見がダブルクリックの速度でうなずいた。 「それでも……ちゃんと自分がやったって報告した方が、いいと思いますよ?」  悲しげに眉をひそめる真実。 「ちゃんと名乗り出てくれれば、一緒に謝りに行ってあげますから……。その後でもいいです、きちんと反省をしてもらって」 「……じゃ、とりあえず、しんくんが謝っとくってのはだめなん? 代理として」  さも名案とばかり顔を輝かせる千夜だが、このチャンスに峰子に怒られる役を押しつけてしまえという魂胆が見え隠れしているのは気のせいか。 「そ、そそそれはみんなの代表ですし、長男が責任を取って」  さすがの真実もこの手には引っかからないようだ。 「っ☆ じゃむお兄ちゃん、よろしくお願いしまーすっ☆」 「あーじゃむ兄なら、お姉ちゃんにいつもシバかれ慣れてるもんネっ♪」 「た、頼りになりますねえ。さすが千夜さん」  他の三人にも次々と満面の笑顔で会釈を向けられる長男。弟に体よく押しつけるつもりが、呪詛返しを食らったらこんな感じだろうか。 「……う゛ー」  長男は、眉根を寄せた勢いでフランケンシュタインの怪物のような面立ちになった。口を半開きにし、カクカクとぎこちなく首をめぐらせる。 「こわっ?!」  目が合った和見が後じさった。 「う、嘘うそ。ホラじゃむ兄、シュークリームがあるよっ」 「きらりん☆」  あわてて雅が差し出したおやつに、フランケンはめでたく生身の人間になった。ちなみにこのきらりんというのも声に出して言っている。 「よし、わかった。」  シュークリームをほおばった長男は重々しくうなずいた。─―が、口の端のカスタードが威厳を帳消しにしている。 「それなら、みんなで謝りに行けばいいんじゃない?」  は。 と空気の流れが止まる。  ブレイクスルーの到来だ。 「な、ナルホドっ」 「じゃむ兄、そうしましょう。みんなでよく話し合って、これから割らないように心がければいいんですものね♪」 「お姉ちゃんも、きっとわかってくれますよっ☆」  次々と晴れやかな、むしろアンパンマンのほっぺたのような、わざとらしい笑顔で互いにうなずき合う面々。 「破片なんかありましたからついびっくりしちゃいましたが、そういうことですよね。  さて、峰子さんのお帰りを待ちながら、お茶を入れ直しましょうか」 「あ、私にも一杯。すっかり冷めちゃってますしね」 「僕にもちょうだい、しんくん、お茶菓子は?」  いそいそと支度を始める兄弟の横で雅はうなずく。 「……家族って、大事だねー」 ──騒動の元凶を作っているのも、同じ家族であるはずなのだが。  その時、前触れなく峰子が台所に現れた。 「なに、お茶の時間?」 「あっお姉ちゃんいつの間に」  片手には駅前のデパートの小さな袋を提げている。外から帰ってきたようだが、皆他の懸念材料のおかげで気配に気づかなかったようだ。 「は、峰ちゃん、実はですね……」  流しに立つ真実に峰子は顔を向けた。そして、皆が恐れていたそれに目を留める。 「あーしん兄瀬戸物って燃えないゴミの日だったっけ? それともリサイクル? 最近いろいろ増えたからわかんなくってさあ。  手ぇ切ったりしたりで危ないとは思ったんだけど、聞くまでとりあえずそこに山にしといたの、ごめんね。  いやーまいったまいった。あ、新しいお茶碗買ってきたんだけど、見る?」 「───────っ」  一拍おいて、お向かいさんが自室で手にしていた煎茶が、威勢よく波立った。