花よ、私と踊りましょう
第四章 退屈な女王様と舞踏会
「いってきます」
「いってきまーす」
緑がかった濃いグレーのブレザーには、銀の三つボタンと、控えめのエンブレム。スラックスは明るいグレーに緑の細いチェック、白いシャツのボタンはひとつ開け、臙脂と銀のストライプが入ったネクタイをゆるく引っかける。そして、眼鏡。
ありふれたスポーツブランドのスクールバッグを小脇に挟み、一家の四日分のゴミ、二袋分を両手に提げて、リージャは玄関を出る。
狭い庭の飛び石を踏むと、すぐ門にたどり着いてしまう。二階建てでベランダには衛星受信のアンテナが備え付けられ、ガレージには両親それぞれの車がぴったり入る、平均的な核家族のための住居だ。
ここは同じような住宅が並んでいる団地である。共用のゴミ集積場までは少し歩く。
一緒に家を出たセーラー服の妹が、ひじをつついてきた。
「お兄ちゃんそれさー、クラスの人に見つかったらまた笑われるんじゃ?」
「……え、まだ寝癖残ってる?」
今は両手がふさがっていて、確かめることができない。リージャは内心焦ったが、にやついたシャンティは予想とはまったく別のものを指さした。
「っていうか、ゴミ袋? なんかサラリーマンのお父さん、って感じー」
「……いいだろ、別に」
リージャは仏頂面を作る。通学路は途中まで一緒なんだから、片方持ってくれてもいいじゃないか、と思っていたら、そういうことか。
「あ、ほら」
嫌な予言というのは、当たるものだ。シャンティが指す方を見ると、まさに見覚えのある奴が歩いていた。
自分と同じ制服で、今日は上着は羽織らずに、アイボリーのセーターを着込んでいる。クラスメイトのオーグルだ。
「おはようございまーっす☆」
リージャが口を開く前に、シャンティが勢いよく右手を挙げて挨拶をする。いつの間にそんなに気安くなってたんだ。
「ああ、おはよう。……って、リージャ、お前、何だよその格好」
失礼なことに、オーグルはこちらの姿を確認した途端、シャンティと同じようなにやにや顔を作った。
「なんだよ。うちでは僕の仕事なんだよ」
「いや、悪いとは言ってないが…… なあ?」
「ほら言ったじゃんー、お兄ちゃん♪」
明らかにからかう響きの声を作った二人にはそれ以上何も言わず、リージャは、曲がり角に作られている集積場の鉄格子の扉を乱暴に開けた。
しばらく歩くと、シャンティは、リージャも顔を知っている幼馴染みの男子と合流し、仲良く自分の学校へ向かった。兄たちの目を気にせずに手を繋いで歩く様子を見て、リージャは、あっれーいつの間にそんなことに……母さんたち知ってるのかなぁ、とぼやく。後ろでオーグルがまたにやにや笑っていた。……うるさいな、自分ばっかり彼女がいるからって。キンモクセイの甘い香りが、どこかの庭から風に運ばれて漂っていた。
校門を目の前にした横断歩道で、信号待ちをしていると、同じ塾に通う一学年上の先輩が歩いてきた。
「おはようございます……ってなんですか、人の顔じっと見て」
「そうだそうだ、俺にはそんな趣味ないからな!」
「……いや、今朝方の夢にお前らが出てきたもんでな」
先輩、アレックはリージャの質問に真面目に答えると、一転して冷ややかな視線を作り、混ぜっ返したオーグルへと据えた。
「……というか、一度俺への認識を叩き直してやる必要がありそうだな、オーグル」
「じょじょじょ冗談だって!」
慌てて肩に掛けていたスクールバッグを盾にしたオーグルに、リージャは笑う。そしてふと、自分が目覚めたときのことを思い出した。
「そういえば僕も今朝、なんかやたら凝った夢、見たんですよね」
「ん、どんなだ?」
と、アレックに訊かれるが、残念なことにやはり思い出せそうにはない。
「それが、目がさめてから思い出そうとしたら、ぽっかり忘れてて」
「あー、あるよな。見たことだけ覚えてるんだ」
アレックの注意がリージャに向いたのをいいことに、さっさと体勢を整えてリラックスしたオーグルが会話に混じり直す。
「そうそう」
信号が青に変わった。周りの生徒と一緒に、リージャたちも歩き出す。
☆
ありふれた校舎の一角には、視聴覚室や特殊教室など、朝の早い時間にはほとんど人通りがない並びがある。
そんな廊下に、一人の女子生徒が息を弾ませて現れる。一秒でも早く会いたくて、階段を駆け上がって来た。……だけど、かわいくしてないところは見せたくないから、乱れたプリーツをさっと片手で直し、もう一度髪の毛が乱れていないか、並んだ窓にぱっと映して確かめる。
OK。
片手には女子高生が持つにはちょっと渋めのデザインのお弁当袋、でも、猫のアップリケが縫い止められている。
いつもの場所に、壁にもたれているのは、彼女が内緒でお付き合いしている先生だ。
「クルト」
恋人が嬉しそうに駆け寄ってくるのを見つけ、クルトは片手を挙げ、壁から離れた。
「や、ルメリア」
ルメリアは恋人の声に乗った自分の名に笑顔を浮かべ、持っていたものを差し出した。
「おはよ、……これ」
「今日も作ってくれたんだ……ありがと」
クルトはお弁当袋を受け取ると、そのままルメリアを軽く両腕で包み込んだ。その腕の中でルメリアは頬を染める。
「うん……、こないだ好きっていってたおかず、また入れたから」
「そっか、嬉しいな。ルメリアは本当、いいお嫁さんになれそうだよね」
「 ……」
髪を撫でられながら、返事をできないでいると、それに気づいたのかクルトがルメリアの顔を覗き込む。
「……ん?」
「……ええと……クルトのお家の、お嫁さんは……」
その視線から逃れるように、ルメリアはクルトの肩に顔を埋めて、これだけ呟いた。するとクルトが苦笑した雰囲気で、強く抱きしめられる。
「……私、一人っ子で長女だし……」
「俺は次男でうちは兄貴が継ぐんだし、そんな心配しなくても」
「……進学して勉強も続けたいし、できれば院にも……」
「ああ、進路希望の紙見たよ、柘榴大にしたんだ? 叔父貴が喜ぶよ、正月に会ったときルメリアのこと気に入ってたから。今の成績なら受験も心配ないし」
「……うん」
頭に優しく手が置かれる。実を言えばそこを選んだのは、ちょうど彼の叔父さんが自分のやりたい分野の教授として在籍しているから、というのもあった。
ルメリアをしばらくなだめるように抱いたままでいたクルトが、ふと思い出したように言葉を継いだ。
「そうだ、今度の休みの予定は?」
「まだ何も……どうしたの?」
「またうちに来ない? 親父とお袋が、ルメリアは今度はいつ来るのかってうるさくて」
「あ……」
思わず、また頬に朱が上るのを自覚する。
「……うん」
「ん、じゃあ決まり。叔父貴もイタリアから戻ってきてるし、お土産のチョコレートもあるから」
「うん」
にっこり笑った恋人が、再びこちらの背に手を回してくるのを感じたところで
ルメリアは、自分の魂のどこかが、強く警鐘を鳴らしているのに気がついた。
★
「…………っ」
突然暗くなった視界に目が慣れず、ルメリアは何度も瞬いた。
「……さっきのはいったい……幻?」
抱きしめられた感触が、残っている。細かいところまでは思い出せないが、自分と彼が信頼感と、それ以上の気安さのような何かに満ちた会話を交わしていたことも。 あれを愛情とは、呼びたくなかった。
幻覚にしては明晰すぎた、しかし、そうでなければ、何だというのだろう。
考え込む視界が闇に慣れていき、中に花を閉じ込めた球体がうっすらと発光しているのに気づく。その光で、大きなものは見て取れそうだ……と思った時、
「……ほう。これは驚いた」
下位古代語が、部屋の片隅から響いた。
とっさにそちらに向き直り、油断なく構えを取って誰何する。
「……お前は?」
ソファの反対側、弱い光に照らされて、異形がたたずんでいた。
巨大な鳥のような翼に下肢、しかし、体は毛皮に覆われている。反射した光の流れる毛皮は、いかにもこの世界に属するものではないことを窺わせた。そして、巨大な梟の顔。
「魔神……、マリグドライ……? いえ、違う……」
ルメリアは眼を細めた。
「……ずっと格上、といったところかしら」
そして構えを解く。勿論、魔神は今すぐに襲いかかってくる様子は見せていなかったが、それに対峙して安心できるはずもない。しかし、どうやらこの場にいるのは自分だけのようだ。いつまでも攻撃的な態度を見せていれば、それこそ機嫌を損ねないとも限らない。
「ほほほ、賢明なことよ。さぞ長生きをするであろう」
魔神は興が乗ったように笑い声を立てる。その表情は、到底人間には推し量れるものではなかったが。
「…………それは光栄ですわ、と返すべき?」
呟くルメリアの前で、魔神が軽く腕を動かすと、部屋が昼間のように明るくなった。
そして、魔神の足元の床には魔法陣が描かれている。どうやら、魔神を捕らえ、使役するためのもののようだ。
その上のなにもない空間に、次々と丸卓や猫足の椅子といった調度品が現れ、魔神の姿がぐにゃりとゆがむと、めまいが止むようにぴたりと収まり、残されていたのは古代王国風の豪奢なローブをまとった女性の姿だった。
……変身か幻覚の魔法だ、とルメリアは見当を付ける。部屋に入った時、魔法陣に囚われていたはずの魔神の姿が見えなかったのも、その魔法の仕業だろう。
やはり幻覚を操るマリグドライの上位魔神、か。
華奢な椅子に腰掛け、魔神であった女性は今度こそ、それとわかる笑顔を作る。
「さて、久方ぶりの客人よ。ひとつ、妾の退屈しのぎに突き合ってくれる気はないかえ?」
「ふうん……?」
慎重に返すルメリアを気に入ったのか、彼女は片手を口許にかざして、再び、ほほほ、と笑い声を上げた。
「いずれ、そなたの仲間らはあの世界に囚われたままなのであろう。焦ることはない」
……世界。
「 じゃああれは、幻の世界だったのね」
「いかにも……。忌々しくも、妾が創造せねばならなかった、世界じゃ」
★
昇降口には、今日もたくさんの生徒が呑み込まれていく。
アレックと別れ、リージャとオーグルも、それぞれの靴箱から上履きを出し、すのこを踏んで履き替える。
廊下に上がると、裏庭を望んで明け放れた窓の枠に背をもたせかけて、顔見知りの先輩が誰かを待っている様子だった。
「おはようルシェ、宿題やってきた?」
クラスメイトの女子に挨拶を投げられ、ルシェは、窓枠についていた片手を挙げる。
「ん、まあな。おはようさん」
続けて、やはりクラスメイトの男子が、通りすがりざまに笑いかける。
「おー"旦那さん"。今日は奥さんはまだなんだ? 毎日熱いねえ」
「そうだよ、妬けるだろ?」
ルシェはにやっと笑った。毎朝ここで、同じクラスの彼女、シーシェルを待つのが日課だった。
通り掛かるのはクラスメイトだけではない。
「あ、ルシェさん。また部活のほう、顔出してくださいよー」
こちらは夏まで毎日顔を合わせていた、ひとつ下の後輩だ。わりかし真剣に懇願する響きを感じ取って、ルシェはいなすように手を振って見せた。
「んー、引退した奴がそうそう出入りするもんじゃないだろうよ。
それに俺、ほら、受験もあるし?」
「そう言っても……、先輩たちがいなくなって、一年連中もたるんでるし」
「おいおい、そう言う時こそ、先輩に頼ってちゃ駄目、だろ。お前らの力の見せ所、ってやつ?」
畳みかければ、後輩はそうですか、などと考え込むようだった。
「ん、相談にゃ乗ってやっかんよ。 おう、おはよう」
後輩の肩をぽんと叩き、ちょうど近づいてきたリージャにも挨拶をする。
「あ、おはようございます。 シーシェさん、待ってるんですか」
「だよ、リージャも早いとこ、愛を知るといいと思うよ、うん?」
「……放っといてください」
……心持ちふくれたリージャがオーグルと一緒に歩き去るのを眺め、ルシェは笑った。
いつもの光景だよな、と思う。友達が次々声を掛けてきて、ほどよく先輩として頼られて、シーシェルが来たらいつものように二人で教室へ向かうのだ。
そしていつものようにかったるい授業を受けて、昼になったらシーシェルと二人で購買に行って、シーシェルが山のようにパンを買い込むのを手伝って、午後の授業は少し昼寝もする。いつものように。
いつものように、学校帰りにはちょっとゲーセンに寄っていくかもしれない。その時のノリと懐具合次第では。
どうして、こんなに懸命に、いつもの日常を思い起こさなければならないんだ?
自分の感覚を、強くねじ曲げようとする何かを感じる。 自分はこんなに必死に、安逸にしがみつくたちだったか。
起こること全てが予測できる、そんな世界に住んでいたのだったか?
これからシーシェルがやって来たら、どうなると?
……要らない。
「そんな シーシェは」
ふと振り返ったリージャの視線の先で、ルシェは小さく、力強くその名を唱えた。
★
「創造せねばならなかった……つまり契約ね」
注意深く、ルメリアは魔神の言葉を繰り返す。魔神は頬杖をつき、愉快そうな様子を崩さない。
「左様……ほほ。そなた、蛮族と見受けるが。蛮族にも斯様に愉快な会話がこなせる者がおるとは思わなんだのう……、ビパルティタの言うておったことも理解できるというものじゃ」
「ビパルティタ……、書き付けにあった名前ね。この研究室の主のことね?」
「ほう、先だっての蛮族どもが持ち出していった、羊皮紙のことかえ? ……あれを読めるとは。なかなか……」
魔神は傍らの、小さな丸テーブルの上に手を伸ばし、金の釉薬が植物の蔓のように象られた古風なティーポットを取った。
そしてもう片方の手にいつの間にか用意していた、揃いのティーカップに液体をそそいで、すする。
「そうじゃ、ビパルティタはこの館の主。幻覚魔術師の一門の生まれ、じゃ。
そうそう、人間はこういう時、己の名を名乗るのであったな。
妾はベゴニア、無論真の名はそなたの舌に乗せられるものではない。ビパルティタが妾に与えた、便宜的な名とでも言うべきものじゃ。
何ぞ、花の名前であったかのう。人の考えたものにしてはよくできておることよ」
ずいぶんここの住人は、花が好きだったと見える。もしかしたら、何か意味を託していたのかもしれないが。
ふと、ルメリアは、モルガナの元に置いてきたはずのサイベルが、部屋のすぐ外にいることに気づく。
再び館の外へと出して、外の様子を確かめ、モルガナたちに無事を知らせるべきだろうか。 そうは思ったが、目の前にいるのは、それなりの修羅場をくぐってきたはずの自分にも正体が判然としない上位魔神 もしかしたら、魔神将かもしれなかった。それでも、仲間がいるなら、少なくとも見かけ上は落ち着いて、自分の仕事に専念することもできる。むしろ直接魔物に立ち向かう仲間の後ろで、悠然としてみせることこそが自分の仕事かもしれない。しかし、得体の知れない魔神と一人で向き合うことは、連続して魔法を使うのと同じかそれ以上に、精神を消耗させる行為だった。
「この数百年というもの、妾が目にできるものと言えば、ただただ、単調に過ぎぬこの部屋の風景のみ……」
ベゴニアと名乗った魔神は、芝居でも演じるように、謳う。
「……単調」
ルメリアはサイベルを手元に呼び寄せ、抱き上げる。
「永劫の孤独、そして退屈。これほどの拷問は、我が故郷においてもそうはあるまいよ。しかし、その哀れな妾にもそなたらが、ささやかな刺激を与えてくれるのじゃな」
ベゴニアがさりげなく使った複数形が、意識を引っ掻いた。
そう、皆は?
「私だけが出てこれたのは何故……?」
「さても、さても。
妾の幻影から逃れ得た術。それをこそもって、妾がそなたに問うものじゃ」
「……貴方は、あの中がどんな世界か知っているの?」
問いに問いを返せば、ベゴニアは途端に、浮かべ続けていた笑みを引っ込めて、興の失せた顔になる。
「夢の世界、であろう。それが妾とビパルティタの契約であったゆえ、な」
夢の世界。ルメリアはその言葉を小さく、繰り返す。
あれは確かに、そうとしか、言えなかった。
「……とても平和で……そう、平和な日常だったわ。
見たことのない世界だったわ。でも、平穏で楽しい場所だった、皆で……そう、小さな世界の中で幸せに……」
夢の中で、抱きしめられた記憶はまだ消えない。それを打ち消すように、ルメリアはサイベルを抱き直す。
「かわいい箱庭みたいな場所だったわ、私の好きな人たちもちゃんといて、楽しそうにしていた、でも……あれは違う」
「違う、とな」
静かに溢れてゆく感情に、ベゴニアはほくそ笑むような表情を浮かべ直す。人間の真似が上手いこと、と頭のどこかで思った。
「あれは私の知っている彼じゃない」
「人の見るからこそ、夢と言うのじゃ。彼とやらが、そなたの覚えと違うても、……幸せであったと感じたのであろう? そこにいかほどの問題がある」
「あれは私の好きな彼じゃない、私を選んでくれた彼じゃない。………私がっ」
最後まで聞こうとせずに、ルメリアは断じた。
「その愛に見合うだけの存在になりたいと、そう思える彼じゃないわ!」
人間を模したベゴニアの顔に、ぱっと、はっきりとした笑みが広がったのをルメリアは見た。
「……ほほ、ほほほ……これは、これは……かわゆらしいことよの」
「このっ……、 !!」
瞬間、生まれ故郷の言葉で罵詈を浴びせるのを、ルメリアは止められない。
反応はベゴニアからではなく、背後から、呆れたような声が投げられた。
「……昼間っから大胆ね、るめにゃん」
第五章 TO BE OR NOT - But, no matter what you say
写真素材:clef
© Kazami SHIHO 2008. / © Witch With Wit-* / ©月光華亭