花よ、私と踊りましょう


第八章 私の恋を知ってください

 リージャは片手に掴んだままだった眼鏡を畳むと、そのままブレザーの胸ポケットに突っ込んだ。   律儀な思考が、これではレンズに細かい傷がつくな、と訴え、ちらりと苦笑する。
   消えないんですね」
 セルウィンが呟いたのは、リージャ自身のことか、それとも、ゆるい笑みを浮かべたまま、リージャを眺めているネリアを模した何かのことか。
「本当だ……」
 後者と捉えてリージャが応じると、その視線を向けられたネリアはふわりと口を開く。
「私が消えることが。それがリージャの望みなら。そうしようか?」
 笑顔のまま首を傾げられ、リージャは視線を伏せて首を振る。
「いいです。それよりも、あなたは   
 なんと聞くべきか、……少し言葉を選んで、目を上げる。
「誰、ですか」
 消えるその時のレクもそうだったけれど   、目の前のネリアがアリアやグリフィスと違うのは、ただの都合のいい幻というだけでなく、その後ろに何者かの意志を感じることだった。そこからはある種の予感を受ける。
 これが、自分達が探していた誰か、なのではないか、と。
 ネリアは大きな瞳を瞬かせる。
「それが、リージャの望み? それを知ることが?」
 もはやそれは、レクだったものがそうしたように、自分をその姿と同じものだと言い張ることはしない。
   そうです。 ……それだけじゃ、ない、   ですけど」
 正直に吐き出せばネリアの姿をしたものは、オーグルにもそうしていたように、到底本人であればしないような、素直な   むしろ、媚びると言ってもいいような応じ方をした。
「全部、言ってみてよ。リージャの望みなら、私は聞くから」
「……、この世界のことを知りたいです。ここを作った人のことを教えてください。できれば、直接話してみたい」
「それを教えたら、リージャはずっとここにいてくれる?」
 ネリアの瞳に刹那、目を背けたくなるような色が漂って、リージャはそれをふるい落とすように、ただ決然と繰り返した。
   教えてください」


       ★


 懐かしき金属音が響き、ルメリアは今度は、誰かに何かを言われる前にそちらを振り返った。
 案の定そこには白い金属の塊が、魔神の作り出した光に照らされ、登場している。
「あら、遅かったわね」
「こう見えても低血圧なんでね。
 おはよう、諸君。おはよう、デーモン。悪夢の演出、ありがとうよ」
 片手を挙げれば、どこからくっつけてきたのか、大きな綿毛のようなものがふわりと落ちた。
 ベゴニアは古代王国風の人間の女性の姿をしたままだったので、看破に成功したわけでもないのだろうが、オーグルは魔神と断じる。特に訂正の必要も感じず、ルメリアはそのままにした。
「……お前は、何を見たんだ?」
 アレックの問いに、オーグルは暫し考えて、籠手を装着した指を曲げる。
「そうだなあ……、
 友好的なレクと、わかりやすいネリアと、あと……」
 あと?    ……いや、少なくとも幻が二人?
「……いや、よそうか。こいつは面白がって触れ回るものじゃないな。まあ、とにかくいろんな意味で楽しい幻を見させてもらったよ」
 思考を巡らす間に、オーグルは自分で話を畳んでしまったので、アレックはベゴニアに向き直る。
「……何をした?」
 無論、ベゴニアは答えない。椅子の両側に肘を付いて、重ね合わせた手の甲に顎を載せて笑う。
   さても、仲間とは、麗しいものよの。そうであろ?」
 言葉を韜晦に沈めるベゴニアを捨て置いて、ルメリアはオーグルに確認の質問を続けて投げる。
「リージャ先輩は一緒じゃないの? それから、セルウィンさんは?」
「リージャは……まだ残ってる。あの世界の創造主に一言言ってやる役目を譲ってやったからな、もうしばらくは出てこないんじゃないか」
「……鍵の持ち主に、見当が付いたって事か」
 細く、アレックは息をついた。
「セルウィンも一緒だ。まあ、あいつのことだし、心配ないんじゃないか?」
 本人が目の前にいれば、まず口に出さない評価を持ち出して、オーグルは保証する。
「……なら待ってればいいのかしら」
「そうだな。俺たちから、幻の中に残ったやつらにしてやれることは、信じて待ってやることくらいしかなさそうだ。まあ、そこのデーモンがちょっかいだしたらそうとも限らないのかもしれんが」
 ふとオーグルは室内を見回した。……座ったソファごと後ろに倒れたルシェが、背中を下にしてそのまま収まっている。いったい何をやっているんだと見やれば、気にするなといった感じに片手を振られた。その胸の上にルメリアの使い魔が陣取り、毛繕いをしている姿に少々和む。
「しかしまあ、お前さんの能力もなかなか大したものだが、それだけだな。確かに人の望みを掬い上げて映し出してることには変わりないが……」
 その対面、骨董ものの椅子に腰掛ける、時代がかった衣装の女性に視線を定めて、オーグルは告げる。
「だが結局、人間様の複雑に移ろう心の中ってやつは、像を結んだ時点で版遅れの代物になっちまうってわけさ」
 彼女はわずかの間絡んだ視線をつまらなそうに落とした。オーグルはそれを何の気なしに追う。二人の間にある低い机には、球体が据えられていた。
「所詮、人は限られた時を咲き誇る花……魂の生きている間こそ、美しいと知るべきであったかな」
 今は光ることもなくただ透明な球体、そこに閉じ込められた、小さな花弁が集まった赤紫の花。リージャなら、その名を知っているだろうか。
「……ビパルティタのことを言っているの?」
 ルメリアの問いにベゴニアは、言葉ではそれを明らかにはしなかった。
 代わりに片手をゆるく持ち上げると、その動きに応じて、小卓にあった紅紫色の表紙の小さな本が浮かび上がる。   球体の中の花と似た色合いのその表紙は、先ほどベゴニアがぱらぱらとめくっていた本だった。
「……これを? 読めということ?」
 部屋の中空を横切って近づいてきた本をルメリアは受け止めた。布張りの表紙には、シンプルな枠線と、そしてやはり花のモチーフが箔押しされている。
「ビパルティタ   彼女が我が能力を限定させ、その中で最大限に活用する……希有な導き手であったことは否定すまい。
 しかし、どのように熱中させられた玩具であっても、いつかは飽きる……、否、熱中したからこそ、壊れる日も早う訪れるというもの」
 熱もなく、揶揄もなく落とされた言葉。もはや反感を露わにする者はいなかった。魔神にとっては、それはただの事実なのだろう。
   だがこの数刻は、今までの五百年とは代え難き鮮やかなひとときであったことよ」 ゆるりと空気に滲んだその声を耳に受けながら、ルメリアは表紙を開く。
 整然と、セピア色のインクの跡が並んでいた。

 母が亡くなった。
 私と父で静かに見送った。
 生まれとは異なる一門へ嫁いで、苦労の多かったことだろう。望めば最新の施術で延命することはできたろうが、父と母自身の希望により、この歳で生を全うすることになった。
 あなたの花嫁姿が見られないことだけが心残りだけど、と言い遺して逝った。
 奇しくも今の私は、母が嫁いだ時と同じ歳になる。
 仕事が趣味で、男性を家に連れ帰ったこともない私は、そういう意味では親不孝だったのだろうか。
 しかし、当時の女性としては珍しく、祖父に逆らってまで、自分の初恋を貫いた母のことだ。いつか思う人と巡り会うまでゆっくりしていることを、笑って許していてくれるのだろうとは思う。
 その日がいつになるかは、わからないけれど。

       ★


 足取りだけは確かに廊下を進むネリアの、長い髪が踊る背中を、セルウィンとリージャは追う。
「リージャさんは……」
 階段にさしかかったとき、ゆっくり、確かめるようにセルウィンは切り出した。
「僕?」
 ネリアに続いて下の階へ降りながら、リージャは続きを促す。
「あのひと、が、偽物だと思っても、消えないんですね」
 セルウィンは視線を、返事をしたリージャにではなく、振り返らずに二人の先を進むネリアに据えていた。
「あー……、」
 リージャは言葉を探す。この感覚を、何と言ったらいいんだろう。
   でもそれは、セルウィンさんも同じじゃないです?」
「わたし、は   
 問いを返せば、セルウィンが漏らした声は暗く低められていた。
「まだ、あのグリフィスでもいいって、心のどこかで思ってるから」
 そうですか、とリージャは小さく呟いた。
 精神を覗かれて作られた、都合のいい幻。それを、その幻とそれを生み出した行為を嫌悪すれば、ここから抜け出せる。それはきっと、現実世界で本物の相手と向き合うことを望むということなのだろう。
 リージャは、セルウィンが言うように、このままこの世界で幻たちと暮らすことに魅力を感じているわけではない。初めから、目の前のネリアの姿をしたものが、ネリアだとは思っていない。……それでもオーグルのように笑い飛ばせなかったのは、   おそらくアレックがそうだったように   幻影に映されたものが、自分の中にある、認めたくはないものだと気づいてしまったからだ。

 それは嫌悪感ではない。痛みだ。
 持たされたくなかった感情を、ずっと抱えていたこと。それさえ叶えられれば満たされるのではないかという身勝手な思い、誰にもわがままを言えないのに、気持ちだけは身勝手である自分。
 決して知られたくなかったものを、知られてしまった痛み。

 あるいは、それを突きつけられたことを世界への反感に代えれば、この世界から出るための扉はすぐに見つかるのかもしれない。……だけど。
   誰も彼もが出会いも別れもせず、歪んだ安逸の中に生きているだけの世界。俺は、この世界に興味も愛想も尽きてる   
 オーグルはそう言った。そして、現実への扉をくぐることを選んだのだ。
 だけど、自分は   

「僕は、まだこの世界で、やりたいことがあるんです。
 知りたい。わからなくてもいいから、知りたい」
 リージャは伝わるように言葉を選びながら、ついさっき自分が目の前の幻に投げかけた問いを意識する。 ……あなたは、誰ですか?
 この幻は、ネリアではない。
 けれど、自分の知っている人物としては偽者であっても、そこには何かの、真実の欠片があると思った。
「わからないのに、知る? その二つは、どう違うんです?」
 セルウィンがおずおずと視線を向けてくる。
「ええと、……こう言えばいいかな、知ることとは憶えること、わかることとは、理解すること、   考えることです」
 今までにどこかで聞いた説明のうち、一番今の自分にしっくりくるものを選んで、リージャは解説する。
「新しいものを作ったり、既にあるものを効果的に使うには、理解が必要かもしれません。古代語や精霊語、あるいは、薬草だの、弓矢なんかの使い方とかは、ね。けれど、呪歌や伝承のように、ただ記憶に留めるだけでも……
   誰かに伝えることは、できる」
「伝えたいんですか?」
「……わかりません」
 苦笑しようとしたら、案外素直な笑いになった。
 知識を蓄積し、そして、伝えることを是とする、それが知識神(ラーダ)の教えそのものだったからかもしれない。
「でも、知りたいと思う、なぜこんな世界が作られたのか、このネリアさんは、『何』なのか。
 それを知って   誰かに伝えるとか、何かに活かすとかは今は考えてないです。ただ、記憶に刻みたい。ラーダ神官の宿命かな」
   わたしも、一つわかりました」
 これは『理解』でしょうか、とセルウィンはくすりと笑う。そのしぐさは妖精らしくいたずらっぽい魅力があって、いい表情(かお)するんだな、とリージャは思った。
「リージャさんは、ラーダ神官だから、そう、なんじゃなくて、そうだからラーダ神官なんですね、きっと」
「……そうかも」


       ★



 ルメリアはページを繰る。羊皮紙に踊るのは流麗な文字、今は現物を持ってきていないのではっきりとは言えないが、男爵の館で見せられた書き付けと同じ筆跡ではないか、と思われた。
「だいたいこのあたりのページは研究生活についてのことね……、上司だの同僚だのが出てくるわ。専門は、幻覚魔術みたい」
「それが何故、敵対関係にあった筈の召喚魔術を……いや、そんな事はこの際、か」
 ベゴニアがこれを見せることで仄めかそうとしているのが何かはわからないが、このあたりの、古代王国人としてありふれた日常生活のことではないだろう。
 そう考えながら、手持ち無沙汰にしている男性陣へ大まかな内容を読み上げつつ、目を進める。とはいえ、相槌を打つアレック以外の二人はこのような日記に興味があるとも思えなかったが。
……ルメリアもこういった内容に取り立てて興味があるわけではない。仕事として必要ならば読み解くのが自分の役目だと思ってはいるが、こういうのを進んで読みそうなのはむしろ   そう、今はここにいないリージャあたりじゃないか、と思う。
 と、視界に引っかかったものがあった。
「『蛮族』……さっき聞いた言葉ね」
「……続きは?」

 ……
 先月から身辺の護衛を任せている蛮族の青年のことで、同僚が繰り返し、過ちのなきよう、彼の精神を縛るべきだと念を押す。
 私はその必要を感じない。よく気の付く、繊細な感性の持ち主だ。精神に力を加えることによって、彼の美徳が損なわれてしまうことを私は惜しむ。
 真に自由な者の精神は縛るべきではない。以前に聞いた、蛮族と我々の違い   実は大したものではないかもしれないもの   を思い起こすにつけその気持ちを新たにする。

「ほう、珍しいじゃないか。聞くところによれば古代王国の魔術師どもは、蛮族に呪いをかけちゃあゴーレム同然に仕立ててたって話だが」
 腰の片側に手を当てたオーグルがやりとりに混じってくる。呆れているのか感心しているのかいまいち判然としない声音だったが、言っている内容はまさにその通りだった。
「蛮族を『愛した』って、そういう意味なの? ……でも、それだけでこんな大がかりな魔法を……?」
   ページは、まだ続いている。


       ★


 一階の廊下を進み、保健室までたどり着くと、ネリアは無言のままその引き戸を滑らせた。
 若い男性の養護教諭が、白衣姿で入り口に向かい合った机に着いている。書類仕事でもしているのか、音を立てて扉が開け放たれても、ネリアが室内に踏み込んで行こうとも、いっさい顔を上げようとはしない。
 部屋の半分は、白いカーテンで囲まれた空間だ。植え付けられた記憶は、そこに寝台が並んでいることを教えてくれる。
 ネリアはわき目もふらず、カーテンの一つに近づいて行き、   それを突き抜けるように姿がかき消えた。
 リージャは思わずセルウィンと顔を見合わせる。
 相変わらず、書き物に没頭している養護教諭の机の上で、オリヅルランの子株が入り口から吹き込んだ風に揺れている。
 カーテンは乱れもせず、そこにたたずんでいる。
 沈黙に押されるように、リージャはそのすぐそばまで足を進め、カーテンに手を掛けた。力を込めればたいした抵抗もなく、金属とプラスチックでできたレールが軽い音を立てる。
 中には想像した通りの真っ白な寝具があり、……一番手前のひとつに一人の少女が横たわっていた。
 白い肌に、金の髪と睫毛。思わず額を確かめるが、水晶はない。
 小さな足音を立てて、セルウィンが傍らに立つ。
 薄く上下している掛け布団。何と声を掛ければいいのだろうか、リージャは暫しためらう。
 すると、気配を察してか、少女がゆっくりと瞼を持ち上げた。翠の双眸が濡れているように見えたのは、まどろみの余韻だったろうか。
 おぼろな視線を天井から周囲へと彷徨わせ、やがてリージャの上に留めると、彼女は『ネリア』と同じ表情で、ゆるりと、ぬるく笑んだ。
   そうか、(ただ)れているんだ。
 ふと浮かび上がった言葉をリージャは呑み込む。少女が乾いた唇を舌で湿して、囁くような声を漏らした。
「あなたは   先生じゃないのね」
「……先生?」
「今まで、私を起こしに来たのは。みんな先生だったから。
   ああ、あなたなのね、私と"同じ人"」
 それは、この幻想世界の奥深くまで踏み込んできた現実世界の住人が、これまでは皆古代王国人だった、ということなのだろうか。
 リージャともセルウィンとも面識のない彼らが『先生』に集中していたことを思い出し、リージャは考える。
 少女は身を起こし、緩慢な動作で上掛けを除けると、スカートから伸びる白く細い足をベッドサイドに下ろした。そこには揃えられた上履きがあった。
「ずっとここで、寝てたんですか?」
「うん。だってここなら、ランネルとずっと一緒にいられるじゃない」
 彼女が茫とした笑みを向ければその求めに応え、それまで一心に何かを書き付けていた白衣の若者がことりと万年筆を机に置き、立ち上がってこちらに近づくと、寝台に恋人と並んで腰掛けた。
 少女よりはいささか色の濃い、現代によく見られる自分たちと同じ色合いの肌、そしてこちらも額に水晶はない。
 その首に腕を回し、肩に頭を預けて少女はうっとりと笑う。
 これが彼女のための幻影、なのだろうか。
「先生なんですね、この人は」
「そうよ、ランネルは先生じゃないといけないの、私を守ってくれるんだもの、他の先生より、ずっと偉くて頼りになるんだから」
 何の気なしに聞いた言葉に、思いのほか力のこもった声が返って来た。……この強い願望の響き、ならば、額に水晶がなくても、彼女が『そう』なのだろうか。
「……ビパルティタさん、ですか」
「私はリナリア」
 リージャに向けた淀みきった目とは裏腹に、少女ははっきりとした口調で返す。……聞き知ったばかりのその名前。確かに、面影がないとは言えなかった。
「リナリア   、コルネール?」
 現代を生きる少女の、そして羊皮紙に残されていたビパルティタの姓でもあるものを繋げれば、リナリアと名乗った少女は目を伏せて、詩でも吟じるように続けた。
「そうよ……彼には家名がないから、それだけは我慢しなくっちゃ……」
 つまり、蛮族ということか   
「でも、私……幸せ」


       ★


 日記は丹念に、書き手が護衛の蛮族の青年と親交を深めていく様子を綴る。彼の生まれ育った村へ招かれ、その家族と交流したこと。やがて、家族にしか明かさない名を呼ばせるようになったこと。
 その合間に、古代王国の貴族の生活風景が混じる。世の中が統合魔術中心へと傾いていく様子。付与魔術師の友人と組んで、女性向けの品を開発していること。死んだ母親の出身は幻覚魔術とは微妙な関係の召喚魔術師一門であったようで、生前その手ほどきを受けたという。冒頭にあった、父母の苦労とはこのことか。
 母の親族と、蛮族の彼の家族   それを比べて、書き手は慨歎する。情の厚い蛮族だからというだけで、彼を好きになったのではないのだろうけれど。
 やがて、書き手と恋人   その頃にはランネル、と名を使って述べられるようになっていた   の間には子が生まれる。
 日付が飛び飛びになってゆき、この日記とは他に育児日誌を付け始めたことが記されている。この日記には仕事でのこと……、そして、自らも一族の反対を押し切って対立する一門から妻を娶ったはずの父が、それなのに、娘が蛮族との間に子を設けたことを許そうとしないことへの悲しみが綴られる。


       ★


 幸せ、と言い切ったリナリアの、言葉とは裏腹の異様さに、セルウィンが、寒気に耐えるように強く自分の身を抱いた。
 この世界でも、まやかしの登場人物でもよい、と一度は言った彼女だからこそ、かえって不安が増すのかもしれない。
 部屋の中に満ちる空気は冷たくもなく熱くもなく、もの言いたげにわだかまっている。
 そうだ、何でもいい、手がかりを見つけるんだ。リージャはここにたどり着くまでに見聞きしたことをなぞる。この人がコルネール家の過去の人物、ならば……、

   父とフラックスのために。

 事の起こりの書き付けにあった名前を、リージャは投げかけた。
「フラックス、というのはどなたですか?」
「どこでそれを? フラックスは息子の名前、二歳になるの   
 瞬間、上げた双眸を澄み渡らせて、リナリアは静かに答える。
 しかしそこまで口にしたところで、再び視線をふらつかせて小首を傾げた。
「……ええと? 変なの、息子なんているわけないのに。さっきまで見ていた夢と混じっちゃったかな。……そう、うん、未来の息子の名前なの。
 息子が生まれたらそう名付けようねって、この人と話していたんだったかな?」
 目を伏せて口許にゆるい笑みを貼り付け、一人何度も頷くリナリア。
 この世界で目覚めた自分やアレックが、元の世界の出来事を夢だと認識していたように、この人もいまだに、五百年も彼方の日常のことを夢に見たりするのだろうか。
「……、お父さんは、何か言ってらっしゃるんですか?」
「お父様は初めね、ランネルはいい青年だけど、それでも生徒に手を出すなんてって怒ってらっしゃったの。でも仕方ないと思わない? 私が好きになってしまったんだもの。
 だけど今はもうね、折れてくれたの」
 リージャは思い返す。
 何の引け目も疎外感もなくあるがままに、四人家族の長男として暮らしていた自分。あれは確かに、自分の望みの一端だった。
……ではこれが、恋人との仲を父に認められることが、この女性魔術師がこんな世界を作ってまで望んだことなのだろうか?
 この先はおそらく、危険な話題に踏み込んでしまうことを覚悟して、リージャは口を開く。それとなく、鎌を掛ける。
「お子さんが生まれるからですか?」
「いいえ、そのぐらいで許してくれる父だったら   こんな、ことは   
 リナリアは反射的といったふうに強く吐き出しかけ、そして再び言葉を切った。
 一瞬の後、紡ぎ出された言葉はそれまでとはまったく違う言語。
「……『嫌、要らない、そんな話はしないで、考えたくない、だって一緒に幸せになれるならいいじゃない、それでいいじゃない!』」
 神聖語(ホーリー・プレイ)によく似た響き、神聖魔法(ホーリー・プレイ)ではありえない祈り。


       ★


 そうして、しばらく日付の開いたあとのそのページには、どこか決意を匂わせる一文が並べられている。

 祝福されない子を産んだ私は、悪い親なのだろうか。伯母たちが私を罵ったように、親不孝な娘であるのだろうか。
 そうは思わない。もし私がそう言われるのであれば、社会の方が間違っていると私は確かに言える。
 しかし、社会を正そうなどと、大それた野望を持っているわけではない。
 ただ私が願うこと、それは、都を彼と息子の三人で手を繋いで歩くこと。
 私が彼の両親に娘として迎えられたように、父に私の息子として彼を認めてもらうこと。
 私の息子を孫として、父の腕に抱かせること。
 それだけが私の願いであり、祈りだ。

   次のページは切り取られ、そこからあとはただただ白い羊皮紙が続いていた。
第九章 花よ、私と踊りましょう

写真素材:clef
© Kazami SHIHO 2008. / © Witch With Wit-* / ©月光華亭