花よ、私と踊りましょう
第九章 花よ、私と踊りましょう
「このページは、ひょっとして……」
丁寧に刃物が使われた切り跡を指でなぞって、ルメリアは呟く。
この日記帳のページが、大きさといい質感といい、男爵に見せられた書き付けと似通っていることは途中から気になっていた。ここには、ぴったりあの一枚が収まるのではないだろうか。
切り取ったあの書き付けを傍らにして、記した父と息子の名をよすがに、彼女は大がかりな魔法に臨んだのだろうか。
「社会を変えようとしたのではない、……か。それじゃ、いったい何がやりたかったんだ?」
ルメリアが読み上げたものすべてを聞き終えて、オーグルは器用にも鎧に包まれた両肩をすくめる。同じようにその内容を反芻しながら、アレックが考察を添える。
「……古代王国期の魔術、特に空間に作用するような物は、俺達の想像の範疇外にある物が多いからな、本人の記録でも無い限り、『正答』は得られんだろうが……、……ここにある物でも、ある程度は推察できるか」
召喚魔術でベゴニアを呼び出し、扱わせたのは幻覚……精神魔術の分野にも関わってくるものとすれば、
「 信念のネックレス、聞いた事があるか?」
「ええ、身につけていると、自分が本心から信じていることであれば、それをそのまま他人に信じ込ませることができる、という代物よね」
ルメリアの解説の通りだ。もしこの魔法が、ビパルティタが魔神の力を借りて、自分の信じているものを他の誰かに共有させることを目的としている、とするなら。
「複数の系統を複合させた魔術、何が失敗であってもおかしくはないが……。
結果、表面的な願望を喰らって、延々と膨れ上がる世界になってしまった、か」
アレックは深く、静かに息をついた。
「あー、そのへんの理屈は俺にはわからんが……結局、どれほど凝ったものでも、夢は夢でしかない、ってことだな。もし失敗とやらがあるとすれば、彼女 たち、に現実に向き合うだけのガッツがなかったことだろうよ」
オーグルは大雑把にまとめると、それで話は終わりと言わんばかりに壁に背を預けた。
アレックは黙したまま、ビパルティタの作った世界、その中で見たものを閉じた瞼の裏に描く。……夢は夢、か。しかしこの行為が、父親や子供への思いから出ていたというのなら、それは必ずしも、立ち向かうべき現実に背を向けた結果、などではなく。
だが、結局悪夢にふけっているのでは意味がない。それだけは、オーグルの言うとおりだった。
★
急激に温度を下げた部屋の空気に総毛立ち、何か見えない力が自分に向けられるのを知覚して、リージャは瞬間、息を詰める。胸のあたりを、ひんやりとしたものが触れていった。
暗黒魔法。人に害なす教えを持つ神の呪い。
光の神たる知識神の加護が及ぶのと同じように、この世界には邪神の目も届いているのだ。リナリアが捧げた願いに応えたのは、自由を至上とする暗黒神か、彼女はいつその教えに触れたのだろうか それとも 、目の前の少女の鈍く光る瞳を見返しながらリージャが考えていると、震える声が、横合いから意識を引っ張った。
「リージャ、さ……」
振り返ればセルウィンが自分の身体を抱えたまま、大きく両眼を見開いて、そこから涙を流れるままにしていた。
「なんで、なんでそんなつらいこと……聞くんですか……」
蛍光灯の光を受けて白く鈍く光る床に、はらはらと雫が落ちる。
「……いいでしょう、もう、知らなくてもいられます……わざわざそんなこと、確かめなくても……」
大きく心の均衡を失った様子に、リージャは思い当たるものがある。
「 『全知なるラーダ、聖なる智をもちて、失われし平静を戻したまえ』」
静かにリージャの唱える祈祷が効果をもたらして、セルウィンは茫然としたまま何度か瞬いた。その腕を解かせ、ポケットから出したハンカチを片手に握らせてやる。
「それは本当に、セルウィンさんの言いたいことなんですか?」
「……わ、たし」
そのせりふは リナリアこそが、伝えたいことなんじゃないか? そして、自分の想像が当たっているなら、セルウィンは、むしろ。
「僕は、諦めないですから。
セルウィンさん、僕に言いましたよね、この世界に残ってもいいって思ってる、って。でも、それが全部本気で、それだけしか思ってないなら、僕についてくることはないんです アレックさんだって、邪魔するなとは言ったけど、何が何でも協力しろとは言ってない。
ああして口に出したのは、セルウィンさん自身が迷ってるってことなんじゃないですか? 戻ることを放棄した自分を、認めてないってことでしょう? ……っていうのは、楽観的、すぎますか?」
返事はなく、その手に押し込められたハンカチが震える。
「何より確かなのは、セルウィンさんは、この世界に持ち込むほど 、モルガナさんやロイドさん、そしてグリフィスさんのことを大事に思ってる。違いますか?」
「…………」
セルウィンは濡れた瞳を揺らす。一瞬もの言いたげに身をよじらせたリナリアを一瞥すると、彼女は眉間に皺を寄せていた。
でも、言わせてほしいことがある。
「その 大事に思ってる相手の、大切に思っているところは、この世界が作り出した幻にはないはずだ」
リージャの目の前で、アレックとオーグルは、この世界で出会った人々を否定してのけた。
妹でないアリアを、兄でない自分を、アレックは、甘受しなかった。
自分が認めた相手、認められたいと思う相手、彼らにあってこの世界のまやかしにはないものをオーグルは見つけ、そして出来損ないのまやかしを笑い飛ばした。
それはおそらく、既にこの世界から出ているんだろう、他の仲間たちも一緒だ。
「大事な人の瞳に映るあなたは、泣いて逃げていて、自分をごまかしていて、それでいいんですか!」
日頃は決して言わないようなことを口にしている自覚はあった。
いつもの仲間がいないからとか、そんな理由じゃない。
「大事な、人……」
この人には、ちゃんと伝わると思ったからだ。
セルウィンはリージャの言葉を繰り返す。惚けていた身体に力が戻ってきた。ぎゅっと、右手の中で、ハンカチが折りたたまれる。
「そうです。……皆さんにとっても、セルウィンさんが大事なんです。あなたが消えたことで、ショックを受けて……たぶん僕たちに会う前に、泣いてたんだと思う。でもそれは逃げてるからじゃない」
リージャはセルウィンの手をゆるめさせてハンカチを取り上げると、顎を伝うままの涙を拭ってやった。あとは自分で、とばかりに片手を持ち上げさせて、再びそれを握らせる。
「僕らにね、いろんなことを教えてくれました セルウィンさんを助けるために、ですよ セージがいないから、情報の整理だって大変なのに。……そうだ、モルガナさんに古代語の手ほどきしてるんでしょう?」
「……そんなことまで、言ってたんですか」
「聞きました。
それ、途中のままで、いいんですか」
また少し、沈黙が落ちた。
でもそれは、逡巡ではなかった。
「 綴り、まだいっぱい間違えるんです、あの子」
セルウィンはそれ以上何も言わなかった。
リナリアと、それを抱く白衣の青年をちらりと見やると、何かをこらえるようにわずかの間目を瞑って、開き、リージャに向かって一度お辞儀をした。
そして消える。 否、出ていったのだ。
険のある声音で、リナリアは一人残されたリージャに詰問する。
「どうして邪魔するの? せっかく、わかってくれたのに」
「 無理矢理同じ気持ちにするのは、わかってもらったとは言いません」
そちらに向き直り、リージャは静かに、ただ断固として返す。暗黒魔法を行使する存在、おそらく力を貸しているのは、知識神と同様に星界にあって、衝撃や圧迫に耐えられなかった人間の心に手を伸ばす、名もなき狂気の神だろう。しかしそれでも、理屈の通用しないかもしれない相手と対峙しているのに、恐怖や嫌悪感は湧いてこなかった。
同情に似て、違うもの。
「みんな、幸せなのに?」
「 幸せ?」
かすかに顎を引いて、リナリアはそのままリージャの顔を上目遣いにする。
「必要なものは、ぜんぶ揃ってるのに。ここにいる人たちはあなたを嫌わない、責めない、裏切らない。憎み合うことも、争いも差別もない」
誰ともぶつからずに、都合の悪いことに触れる記憶は書き換えて。
「……それは、本当に、自分以外の誰かを必要としている、って言えるんですか?」
受け容れられること、劣等感とか遠慮とかそういうものなしに最初から作れる関係があったら、と思ったことがないとは言えない。
だけど、自分とは違う存在だから、他人なのだ。
自分とは違うから、意見がぶつかることもあるかもしれない。でもそれは、本当に辛いことばかりだったろうか。
話し合って、わかり合うことができたら、それは大きな喜びではなかっただろうか。
「僕は確かに誰かを必要としてる、だけど、誰かに必要としてほしいんです。それは僕が誰かの都合のいい存在になる、ってことじゃない」
いつぞや、オーグルに仲間と共に『照れくさい話』を聞かされた時のように そしてさっき、自分が『普段はしないような話』を聞かせてしまった時のように。
「話を聞いて、慰めてくれるだけなら、都合のいい存在にもできることかもしれない。
でもその人は、あなたを叱ってくれますか?
道を間違えたら引き戻して、目をさまさせてくれますか?
本当に大事なことは、都合よくなんかない」
否定しないということが、相手を受け容れることではないんだ。
唐突にリージャは気づいて、そして、ふ、と溜息に微苦笑をのせる。肩が揺れた。
否定されても平気な相手、それでも、軽蔑されたくない人……たち、というのは、つまり。
探し求めていたものは、やはりとうに手に入れていたのかもしれない。
「 どうしてそんなこと言うの! あなたは、私と同じ人なのに、わかってくれないの?!」
リナリアは声を荒げる。同じ? と訝ると、続けて言いつのる。
「繋げたかったのでしょう、自分が生まれる前から、ずっと続いていたものを。次の世代に手渡すことで、自分が貰ったものを、それを貰ったことを確かめたかったんでしょう、愛情で結びついたものなら、それをずっと伝えていけるって証明したかったんでしょう。前と後を結ぶもののただの一つになることで、次々に現れて、次々に消えて行く、そういう決まり切った、だけど自然な流れの中に組み込まれたかったんでしょう? 違うの?」
浴びせられた言葉の滝を受けながら、リージャはああ、とさまざまなものが腑に落ちるのを感じていた。
やはりこの人がこの世界を作って 僕の精神を覗いて それぞれの幻影を作り出して、送り出して、……そして、これこそがこの人の望みだったのだ。
リージャは自分の望みを、こんなふうに整然と理屈立てたことはない。これはリージャのものではない、リナリアの望んでいるものだ。彼女はずっとこう考え続けていたのだろうか この寝台で、あるいは、この魔法を仕掛ける前、ままならない日常を送りながら。
そして
ここにいてくれる?
ネリアの姿をしたもの、それはただの幻なんかじゃなく、この人の意識が姿を変えたものだったのではないだろうか。
もし、そうなのだとしたら。
「だったら……、あなたこそ、わかるでしょう? どうして僕を、あなたと同じだと思う人間を引き留めたいと思ったのか。あなたの言葉にただ頷いてくれる人なら、この世界に元からいやと言うほどいるはずです」
知ることとは憶えること、わかることとは、理解し考えること。そして同じことを同じように思うことを、共感を持つことだというなら、
リナリアは確かに僕を必要としてくれていたのだ、共感しあう相手として。
「この世界じゃ、いいなと思った人に背を向けられることもないけど、同じものを見て、同じ気持ちになれる人と新しく出会うこともできない。
ねえ、でも、あなたは伝えたかったのでしょう?
ご両親から貰ったものを、息子さんに伝えたかったのでしょう……、それがあなたにとってどんなものだったのかは僕にはわからないけど、だから、こんなことを始めたんじゃないんです?」
「こんなこと、なんて……、言わないでよ、わからないなら、わかってくれないなら!」
言葉尻を捉えただけのリナリアの癇癪に煽られ、リージャもつい声を大きくする。
「伝える努力をしてないから、わかるわけないんです!
あなたは、伝えるための相手を見つけることができていたのに!」
そこだけは、リナリアは自分とは違うのに。
「なら 何があっても、その手を離してはいけなかったんだ!」
リージャは傍らに寄せたカーテンの束を手の甲で叩く。勢いで引っ張られた金具が、抗議の声を上げた。
音を立てて竦ませようと思ったわけではない。ただ、身の裡からこみ上げてくるものを、発散するすべが他になかった。
「うるさい……、『もういい、出ていってよ!』」
リナリアはベッドの上でぎゅっと目を閉じて両腕で両耳をふさぎ、いやいやと頭を揺らす。小さく暗黒語で叫ぶと、目に見えない暴力的な何かが放たれた。リージャはその魔力を、正面から受ける。
頬に当たった力が弾け、痛みが走った。目の端にちらついた赤いものにそちらを見れば、魔力は、リナリア自身をも傷つけている。見境がなくなっているのか。ランネルは平然としている 力は幻を傷つけないのか、それとも、恋人を守る気持ちだけは残っているのか。
リナリアはきっと顔を上げると両手を頭から離し、思い切りリージャを突き飛ばす。
「出ていって! あなたはここが嫌いなんでしょう!」
勢いで、リージャはのけぞる。頭がぐらりと動くのと一緒に、意識がどこかに吹き飛ばされるような感覚が襲ってくる。
★
「おはよう。思ってたより遅かったじゃないか」
いきなり視界にぬっ、と金属に覆われた人間が大写しになり、セルウィンは面食らって濡れたままの両眼を何度か瞬かせ そのまま、身体の平衡を失って倒れ込む。
おっと、とひんやりした両腕でその身を支え、オーグルはねぎらってやる。
「よく頑張った。おかえり」
しかしそれを見返すセルウィンの目つきは、胡散臭いものを見るまさにそれだ。……幻想世界でのことは、記憶から失われているのだろうか?
「仮にも恩人の前なんだから、もちっと嬉しそうな顔したってバチは当たらんだろ」
見かねたようなアレックの助け船が入った。
「……兜を外してから言え、その台詞は」
そうだった、とオーグルはアレックにセルウィンを預け、頭に手をやる。やがて現れた見覚えのある顔に、セルウィンはあぁ、と得心の混じった吐息を漏らすが、その身は泥のように力を失ったままだ。衰弱しているのかもしれない。アレックはセルウィンを床に横たえた。
く、と喉の奥で笑声を立てた者がいる。赤く彩られた爪が、空気を掻くように舞った。
「ほんに、芳しゅう……ビパルティタ、そなたの見立てに、違えはなかった、ということよの……!」
★
刹那、脈絡なく、脳裏を大きな鳥が黒い羽根をはばたかせるイメージが横切り、 たたらを踏んで、リージャはその場に踏みとどまった。
「 と……っ」
右手で胸を押さえ、リージャは知らず上がっていた息を整える。両腕を中途半端に伸ばしたままの格好で、リナリアがこちらを睨み付けている。
「……何で消えないの?」
リージャにだってわからない。……何かの意思が働いているのかもしれない。だけど、もしそれにいいように使われていたとしたって、自分の気持ちとそれが今は合致しているのだから 乗ってやる。
「 『いと高き者、深き智もてるラーダの御名において。傷よ癒されよ』」
祈りを口にすることは、自分の心を静める効果もあった。それは聞き届けられ、リナリアの腕とリージャの頬に薄く刻まれていた傷は跡形もなくふさがる。奇跡を願う間、二人の間にかざしていた手を下ろすと、リージャはそれを静かに握りしめる。
「出ていきません。確かにこの世界は幻想ばかりのところだけど、僕が見ているあなたは、幻なんかでも……偽物なんかでもない。それなら 、
言ったでしょう、僕は、あなたを諦めたりしない」
両腕を引っ込めてまた縮こまりそうになるリナリアの手首を、捕まえ軽く引き戻す。
「あなたと一緒に夢を見ることはできない、あなたの あなただけじゃない、他の誰にとってであっても、都合のいい存在にはなりたくないから。
でも、僕を必要としてくれて、ありがとう」
リージャは、リナリアの目を真っ直ぐに捉える。
「一緒にいてほしいって言ってくれて……、わかってほしいと思ってくれてありがとう。だけど、いや、だからわかったんだ。
僕らは同じものだから共感できるんじゃない、同じことを同じように思うから互いを居場所だと認められるわけじゃない」
血の繋がらない妹を持つのは同じでも、自分とアレックの思いは違う。それは些細な立場の違いが生んだものじゃなくて、それそのものが、アレックと自分が違う人間だ、という事実なのだ。それでも、あの二人を見ていて感じることはあるし、それは向こうからしても同じことなのだろう。
そして、オーグルは 、オーグルと自分の居場所の捉え方は、今だってきっと違う。ああ聞かされた今でさえ、自分の、確固としたものに憧れ、しがらみをいっそ愛しく思う気持ちを自覚している。
だけど、それでもなお……遠回しに自分のことを必要だと言ってくれたオーグルの言葉に、その迂回しがちなところも含めて、応えたいと思う。
この世界では纏っていなかった、冷たい輝きが、時々、苛立たしかった。
あの打ち明け話を聞いたからこそ、そんなもの本当は必要はないのに、と歯がゆく思わされていた。
でもそれを露わにできないのが自分で、それで仕方ないのだ、と諦めてもいた。
そんな自分だから、誰の居場所になることもできないのだと。
けれど、特別な言葉や態度など、必要なかったのかもしれない。……だとしたら、それが 特別なものが必要じゃないってことこそが 得難い、自分が本当に必要としていたものだったのではないだろうか。
そして オーグルは、リージャのことを必要としているのは自分だけではない、と言ったのだ。
「僕は、一人では出ていきません」
それを気づかせてくれたのがこの人だから、リージャは、はっきりと言える。
もし、今の不甲斐ない自分でも、必要としてくれる人が何人もいるのなら。
うつむきがちなリナリアの心に、しっかりと届く言葉を探す。
「フラックスさんは、お嫁さんをもらって、子孫が今は地方領主をしてるんですよ。
僕はゆうべそこに泊めてもらいました、今の当主も立派な方で。
娘さんの名前は、リナリアというんです」
上体を大きく揺らして、リナリアは自分の片手をつかんだままのリージャを見上げる。
その翠の瞳に注ぎ込むように、リージャは訊いた。
「お子さんに、伝えたかったことがあるんでしょう。ここから出て、伝えに行きましょう?
お父さんに、認めてもらいたかったのは何なんですか?」
リナリアは大きく口を開く。
白いカーテンが大きく風に翻った。何枚も一度に、揃って。
強い風に刹那気を取られて、入ってきた入り口のほうを振り返ると、そこは逆光があふれてサッシも廊下も確かめられない。
「わたしは 」
聞こえてきた声の高さが今までと違って、リナリアを見直す。
そこには自分より年上の、長い金髪を垂らした、古風なローブ姿の女性がいた。驚いてつい手を離すと、彼女は翠の瞳を細めて、泣き笑いの顔を作った。
「幸せだと。知ってほしかっただけなの」
その純粋さが、確かにリナリアだった。
リージャは微笑む。
「伝わってますよ、きっと。だって、そのためにこんなことまでできてしまったんでしょう?」
その言い回しに、リナリアは絶句し、何度も瞬いた。
やがてその面が、染みるようにほころんでゆく。
「……そうね、ほんとうに、そうだわ」
美しいと、思った。
いつの間にか光は部屋を満たし、その向こうに見えなくなった世界を満たし、ゆっくりとそれを解体していった。
傍らの幻想の青年の姿は、もうない。
「もう一度、抱きしめたかったな。あの人と、あの子を」
……静かな嘆きに、リージャは魔術師の運命を察する。定命の人の身は、五百年の長きに耐えられない。
光が徐々に収まり、その向こうには遺跡の、魔法陣のあった一間が広がっているのが見て取れるようになってきた。
仲間たちに囲まれて、卓の上には透明な玉、紅紫の花、姫金魚草。……そう、この花の名前だ。
ルシェがソファを倒し、背もたれに座りこんで座面に背中を預けているのが見えた。
リージャは真っ直ぐリナリアを見直して、心に浮かんだままのことを言った。
「できますよ。みんな、あなたを待っててくれると思います」
それを言ったとき視界の隅でオーグルがにやりと、 ほくそ笑むというよりむしろ満足げに 笑ったので、リージャは、あぁこれはしばらくあいつに好き勝手言われることも覚悟しなきゃいけないなぁ、と苦笑しかけ…… その想像がそんなに悪いもんでもない、という自覚に、それをまともな笑みへと深めた。
「あなたに言われると、信じたくなるから不思議」
「信じてください。僕は、神官です」
その言葉が届いて、ふわりとわらったのを最後に、リナリアは砂になって、風に吹き散らされた。
第十章 過ぎゆくとも消えないものを両手に集めて
写真素材:clef
© Kazami SHIHO 2008. / © Witch With Wit-* / ©月光華亭